海が見たい
大学生の頃に住んでいた学生寮は、自転車で10分くらいの距離に海があった。
当時のわたしはうつ病ではなかったけれど、悩みや考えごと、1人になりたいとき(寮の部屋は1人部屋なんだけれども)、よく海を眺めに行っていた。
今思うと危ないけれど夜中のときもあったし、明け方の、世界が寝静まっているような時間に出かけることもあった。
海を見たところで悩みごとが解決できる訳でも、消え去る訳でもないのだけれど、不思議と海を見ているのは好きだった。
何でだろう。海を見るとほっとするのは。
生き物はすべて海から生まれたからなのかな。母なる海のせいなのか。
今も、ふと海を見たいなと思う瞬間がふとある。1人で静かに海を眺められる場所に行きたい。時間や人目を気にせずにいられる場所に行きたい。
どこに行っても人で溢れている東京では、そんな場所なんてきっとないのだろう。
人との繋がり、人間社会。
誰とも交わらずに生きていくことなんて不可能なんだと、東京の街は嫌でも訴えかけてくる。
誰とも関わらず、人は1人で生きていけない生き物だってわかってはいるけれど、どうしようもなく1人になりたい気分になってしまったときに、東京という場所は優しくない街だと思う。
こんなに人で溢れているのに、どこかみんな孤独に見える。みんながそれぞれ自分のことしか考えず、自分の目的を成就させるために脇には目もくれず早歩きで通り過ぎていく。
今の自分はその波に飲まれて生きていくことが出来ないから、世の中の輪から外れてそうした景色を眺めている。
そんなに急いでどこに行くのだろう。どうしてみんな息苦しそうに急いでどこかへ行こうとしているのだろう。
他人と他人がぶつかってもお構いなし。ゆっくり歩くお年寄りや障害のある人への目線は冷たい。
人は1人では生きていけないはずなのに、どうしてみんな自分以外の誰かに目を向けようとしないのだろう。
自分の価値観だけで構成された輪の中に入れる人間は受け入れて、そうでない者は容赦なく蚊帳の外に追い出される。
“社会”とか“世の中”とか大人になれば嫌になるくらい耳にする言葉だけれど、それは誰が作ったものなのだろう。どんな人たちで構成されたグループなのだろう。
結局は、その人の言う“社会”も“世の中”とか“世間”もその人の価値観の中で自分が創造したものに過ぎないのに。
なのに、わたしたちは、どうして社会とか世の中とか世間体とか目には見えない、誰にも答えなんてわからないふわふわした何かを気にして生きているのだろう。
虚しいな、と思う。
そう思ったときに、大学生の頃によく行っていたあの海を、見たいと思う。
どこでもいい。どこか遠くへ行きたい。
最近、こんなことをよく考える。