ふみきり
自宅のすぐ側には電車の踏切がある。
駅に行くにも、コンビニやスーパーへ買い物に出かけるにも、その踏切を渡らなければならない。
普段は何気なく通る踏切だけれど、心がどん底まで落ち込んでいるとき、家に篭っていて電車が通過していく音を聞いているとき、踏切を渡ろうとして遮断機が降りてきて、電車が目の前を通過するのを待っているとき。
この遮断機を跨いでしまえば、もう何も考えず、悩まず、心を痛めつけることもなくなるのかな。と、ふと思ってしまう自分がいる。
トイレのドアノブを見つめたとき、玄関のドアに手をかけたとき、眠剤を飲んでここにコードやマフラーを引っ掛けてしまえば…と、ふと思う瞬間もある。
心臓がバクバクして、手足の感覚がなくなってきたとき、身体中が震えてどうしようもないとき、安定剤を見つめながら、今持っている薬をすべて飲んでしまったら…と考えたりもする。
そのくらい、心がヤスリでズタズタに削られているときもある。心の形が丸だとしたら、ヤスリで削りに削って、もう林檎の芯くらいしか残ってないほどにすり減ってしまっている状態は、頻繁に訪れる。
楽になれる勇気があればいいのにとさえ思う。どこまでも臆病なわたしは、心で思っていても、実行に移すことが出来たためしはないのだけれど。
この間、母と大喧嘩をしたときに、「母に必要とされないのなら、突き放されてしまうのなら、わたしはもう生きていたいと思えない」と言ってしまった。
そのときは、心はもう死ぬことしか考えられなくて、電話で泣きながら、「もういい」「死にたい」と何度も言っていた気がする。
そして、ふと母にこんな疑問を投げかけた。
「わたしが自殺したら、悲しいって思う?」
と。
「当たり前でしょ」と母には怒鳴られた。
子どもがそんなことして、悲しまない親なんていないと言われた。
わたしは母に依存気味な程、彼女のことが大好きなので、そんな母が悲しむことはしたくないなあと、泣きすぎて過呼吸を起こしてぼんやりした頭でそう思った。
だから、わたしはなんとなくだけれど、今日を、今を生きている。
踏切の遮断機を見つめて思うことは変わらない。けれど、それを実行に移す日は、きっとないのだろうと思っている。